2019年1月22日火曜日

【学問のミカタ】 
 目隠しと「ルサンチマン」

 「哲学」という講義等を担当している麻生といいます。先日、授業のなかで『ニーチェの馬』という映画を観ました。その際にふと考えたことを書いてみます。

 ご覧になった方もいると思いますが、『ニーチェの馬』はハンガリーの映画監督タル・ベーラの作品で、日本では2012年に公開された映画です。哲学者のニーチェ(1844‐1900)にまつわるある逸話――イタリアの街トリノの広場で、御者に鞭打たれる馬の姿を目にしたニーチェが、その御者に激昂して、泣きながら馬の首にだきつき、そのまま昏倒したという真偽不明の逸話――が冒頭で紹介されたあと、人里離れた一軒家で、馬に荷馬車を引かせて暮らす初老の男とその娘の、いわば静かな破滅を予感させる6日間の生活が淡々と描きだされる作品です。

 ところで、その映画を見ながら、ふと思ったことがあります。とはいっても、映画の内容にかかわることではありません。映画の冒頭、寒風吹きすさぶ荒野で鞭打たれながら荷馬車を引いて駆け続ける馬の様子が、圧倒的な存在感で映しだされるのですが、そのシーンを見ていて、ああそうか、と今さらながらあることに気づきました。馬の目隠しについてです。

 言われてみれば多くの人が思いだせると思いますが、馬車を引かせる馬など、人間に使われる馬には、しばしば両目の外側に四角い覆いがつけられています。要するに、(馬はたいへん視野が広いのだそうで、そのため、)馬がわき見をせずに、ひたすら前を向いて走るよう、その視野を制限するためにつけられる馬具のことです。

 映画の冒頭シーンを見ながら、そういえば馬車を引く馬にはこの目隠しがついていたよなと、なぜかしみじみ思いだしました。と同時に、ふと思ったのは、でもこれは馬だけのことなのだろうか、ということです。ひょっとしてわれわれ人間にも、自分では気づかぬうちに「目隠し」がつけられていることはないでしょうか。

 馬車を引く馬は、一目散に駆けている最中は、おそらく目隠しをつけられていることをほとんど忘れているのではないかと思われます。われわれも、自分ではいろいろものを見ているつもりになっているだけで(ややもすると自分は視野が広いのだとすっかり己惚れている向きすらあるかもしれません)、じつはいつの間にか目隠しがつけられたり、あるいは自分で目隠しをつけてしまっていることはないでしょうか。追い立てられるように前だけを見て、横や後ろがあることさえ忘れてしまっていることはないでしょうか。(これは空間的なことだけではありません。時間的なことにかんしてもいえるはずです。)しかも始末が悪いことに、いちど目隠しがつけられて、それに慣れてしまうと、もうそのことに気づくことが難しくなってしまうように思われます。

 ところで、冒頭のシーンを見ながら思ったことには、おまけがあります。「ルサンチマン」という概念にかかわることです。

 ルサンチマンというのは、ある時期以降のニーチェの著作でしばしば用いられるキータームのひとつです。ときに「怨恨」と訳されますが、いわば屈折した恨みや憎悪のことです。たとえば、失恋して、ひどく寂しい思いをしているとします。寂しいのであれば、また新たな恋に踏みだせばよいようにも思います。しかしそうはせずに、恋人とうまくやっている友人、リア充の友人に恨みを向け、その人を悪者にして陰口を言ったり仲間はずれにしたりすること、そしてその友人が失恋することを望み、じっさいに失恋しようものなら喝采するような心のありかたや態度、平たくいえば、それがルサンチマンです。ニーチェはこのルサンチマンを、キリスト教をはじめとした西洋文明を批判するうえで鍵となる概念のひとつとしてもちいているのですが、映画を見ながら思ったのはもっとささいなことです。

 馬車を引く馬の多くは目隠しがつけられています。とはいえ、なにかの拍子で目隠しがはずれた馬、前だけにとらわれずに、あちこち見回して、気の向くままに立ち止まったり駆けだしていったりする馬がいたとします。このとき、必死に走らされている――目隠しされていることを忘れた――多くの馬たちはどうするでしょうか。自分の目隠しに気づき、なんとかそれをはずそうともがくでしょうか。それとも、いわばルサンチマンへと向かい、目隠しのはずれた馬を「ふつう」でないおかしな奴だと嘲ったり、陰に陽に攻撃したりすることになるでしょうか。馬の場合はよくわかりません。けれどもわれわれ人間の場合は、残念なことに、ややもするとルサンチマンに陥ることになるような気もします。

 われわれに目隠しがつけられているとすれば、それはともかくもこの社会のなかでそうなっているのであり、そう簡単に目隠しをはずことはできないように思われます。とはいえ、できることもあるのではないでしょうか。たとえば、ひょっとして自分にも目隠しがついているのではないか、少なくともそう疑ってみること、そしてまた、自分もある種のルサンチマンに陥っていることはないだろうか、そのようにわが身をふりかえってみること、そうしたことであれば、なんとか可能であるように思われます。もちろん、それもなかなか難しいことではありますが……。

 『ニーチェの馬』を観ながら、そんなことをあれこれ考えた日でした。〔麻生博之〕

1月の【学問のミカタ】
・経済学部「きのこたけのこ戦争と巨大IT企業の違い
・経営学部「山本聡ゼミ、最優秀賞への道!!:なぜ、山本聡ゼミは学外コンテストに参加し続けたのか?
・コミュニケーション学部「学校スポーツのあり方について考える
・現代法学部「法の学び方-アイラック