2018年8月17日金曜日

アーティスト濱村美郷(HAMAMU)さんが徐京植先生のゼミに

■芸術って何だ?

 ジェンダー論ほか担当の澁谷知美です。本学の21世紀教養プログラム(現在は募集停止)の卒業生でアーティストの濱村美郷さんが、6月21日、恩師である徐京植先生のゼミ(総合教育演習)「芸術を通じて考える人間と社会」にゲスト講師でいらっしゃいました。

濱村さんと作品 (c) HAMAMU

 濱村さんは、韓国・ソウルを拠点に、HAMAMU 名義で、ジェンダーやセクシュアリティをテーマとした絵やインスタレーションを発表しています。4度目の個展をソウルで終えたばかりの濱村さんの作品は、とてもパワフルです。

 濱村さんがゲストにいらした徐先生のゼミ「芸術を通じて考える人間と社会」は、芸術作品の鑑賞を通じて、作品に表現されている人間と社会の諸問題について考察します。「すぐれた芸術作品は『ことば』だけでは言い尽くせない人間の複雑な心理や深い感情を、ときには作者自身の意図をも超えて、表現する」ことを前提に、作品が発するメッセージを「全身の感性で受け止め」ることを目指すゼミです。年間、2、3回、皆で美術館などに出かけて作品を鑑賞し、感想を交換しあうこともあります(シラバスより)。

 「『ことば』だけでは言い尽くせない人間の複雑な心理や深い感情が表れている作品」と聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのは、1945年8月6日にアメリカ軍によって原子爆弾を落とされた広島の様子を描いた、丸木位里・丸木俊の「原爆の図第1部幽霊」です。

 この絵は、原爆で皮膚がぼろ布のように垂れさがった人、焼け焦げて見分けがつかなくなった顔、まるで幽霊のように手を上げて歩いては、力尽きて倒れた人(上記URLのページにある解説より)が描かれています。「ことば」で「皮膚がぼろ布のように垂れ下がった人」と描写するよりも、その様子を視覚的に表現した絵は、観る者に何倍ものインパクトを与えます。そして、「絶望」、「怒り」、「悲しみ」といった「ことば」だけでは言い尽くせない「人間の深い感情」を私たちはこの絵から読み取り、戦争がどのようなものなのか、人が人を殺戮し、傷害を与えるとはどのようなことなのか、「気づき」を得るのです。

 アートというと、「美しい」、「目に楽しい」ものを思い浮かべる人がいるかもしれません。しかし、そうではない側面もアートにはあります。「『ことば』だけでは言い尽くせない人間の複雑な心理や深い感情」を表現する作品は、なおさらそういう側面を持つでしょう。

 濱村さんの作品も、巷にあふれる「美しい」、「目に楽しい」作品の基準には合致しないかもしれません。が、確実に「気づき」を与えてくれ、「ことば」による説明以上に観る者のイマジネーションを刺激します。


HAMAMU作 無題(2018年) (c) HAMAMU

 この絵には、ワキ毛を剃っている人(画面左側)、脚のスネ毛を剃っている人(画面右側)が描かれています。場所はシャワールームです。左上にシャワーが見えます。ワキ毛や脚のスネ毛を剃らなければならないという、女性にたいする抑圧をモチーフとしたものです。「そういえば、ワキ毛やスネ毛の処理を求められるのって圧倒的に女性だな」、「それはなぜなのだろう?」。そんな「気づき」を与えてくれる作品です。

 画面の左半分が赤で塗りこめられているために、シャワーから出る水は血のようにも見えます。毛剃りでにじむ血を意味しているのか、「『美』への血のにじむような努力」の象徴なのか、女性が置かれた窮屈な世界への「絶望」の表現なのか……。「ことば」によって規定されていないがゆえに、いろいろな考えが浮かびます。

■フェミニズム・アート

 濱村さんの絵は、フェミニズム・アートというジャンルに位置づけることができます。フェミニズム・アートとは、フェミニズムを背景に、1960年代に欧米で生まれたアートの潮流のことです。日常における女性の経験をモチーフにしたり、女性にたいする社会の抑圧を可視化したり、あるいは女性をエンパワーメント(励ましたり、勇気づけたり)する作品が生まれています。

 フェミニズム・アートとして有名な作品のひとつに、アメリカのアーティスト、ジュディ・シカゴの「ディナー・パーティ」があります。女性器をモチーフとした柄が描かれた皿39枚を食卓に並べたインスタレーション作品です。皿の1枚1枚には、紀元前のギリシアの詩人サッフォーや、20世紀に活躍したイギリスの小説家ヴァージニア・ウルフといった著名な女性たちの名前が付けられており、パワフルな女性たちの歴史が過去から現在に至るまで脈々と続いていることを感じさせます。

 フェミニストでジェンダー研究者の上野千鶴子は、女性の表現者がしばしば女性の身体をモチーフにすることを指摘したうえで、ジュディ・シカゴの作品に「女が女自身を回復する」ためのメッセージを見出しました(『女遊び』1999年、学陽書房、18-9頁参照)。

「女が女自身を回復する」とはどういうことでしょうか?このメッセージの意味を理解するには、女性の身体は女性のものでありながら、女性のものでなかったことに思いをはせる必要があります。では、誰のものなのか。実は、「所有者は男たちだった」と上野はいいます(前掲書、19頁)。

 そういえば、女性が痴漢被害をはじめとする性暴力にさらされることはしょっちゅうだし、社会からは「子どもを産め」という圧力をかけられます。異性から不躾なまなざしで見られたり、美しくなかったり、スタイルが良くないと罵倒されます。そうした他者の視線を内面化して、自分で自分を呪い、罵倒することさえあります(「内面化」というのは、外部の影響で身に付けた価値観を、まるで自分の内側から出て来たもののように思いこむことです)。

 そのような社会にたいしてノーをいい、自分の身体の所有者は自分であることを確かめる意味が、フェミニズム・アーティストの女性の身体を描くという行為にはある――上野による「ディナー・パーティ」解釈が示唆するのは、そのようなことです。

 女性の日常や身体を描く濱村さんの作品は、そんなフェミズム・アートの文脈に位置づけられるものです。こちらは、月経カップ(膣内に埋め込んで経血を受けるシリコン製のカップ)をモチーフにした作品。カップを入れる時のポーズの面白さに惹かれ、描いたそうです。よく見ると折りたたまれた月経カップも描かれています。色使いがひじょうにポップです。

 「憂鬱」という意味づけが優位な月経にまつわる身体の動きに、濱村さんは「面白さ」を見いだし、愉快な雰囲気さえ伝わるカラフルな作品に仕上げました。その感性に、「女が女自身を回復する瞬間」を見る気がします。


 濱村さんは、作品にタイトルをつけません。作品にかんする説明も必要最小限にとどめます。なぜなら、観る人に先入感を与えてしまうから。ゼロの状態で観てもらい、観る人それぞれに、それぞれの仕方で解釈してもらう――それがHAMAMU スタイルです。

 フロアからは、「なんだか、気持ちがざわざわする」、「自分が普段ひそかに思っていることを思っている人がこの世に存在するんだということがわかり、勇気づけられる」など、いろいろな意見が飛び交いました。濱村さんのねらいどおりです。

 参加者のやりとりを教室の端で見ながら、「ことば」で説明しないがゆえに、観る者から「ことば」を引き出すHAMAMU スタイルに、私は舌を巻いていました。と同時に、そのスタイルそのものが、「『ことば』で表現できるなら、とっくにしていますよ。『ことば』では表現できないものがあるから、絵を描いたのですよ」というメッセージであるように、私には思えました。

■フェミニズムはすべての人を解放するもの

 濱村さんは2014年に21世紀教養プログラムを卒業しました。同プログラムの授業「オフキャンパス・プログラム」で韓国に行き、ソウルの地下鉄にて、現地のお年寄りから日本語で親切に話しかけられます。お年寄りが日本語を話すに至った歴史的背景を知った濱村さんは、「韓国の人の言葉を理解したい」と思うようになります。

 在学中に1年間の語学留学をし、卒業後、ふたたび韓国に渡りました。そこから数えて、韓国生活は5年目に入りました。

 濱村さんの創作の動機は「怒り」です。「あの中年男性、私が女でなければ、からんでこなかっただろうに」などと、女であるがゆえに日常のなかで覚える「怒り」が原動力になっています。

 とはいえ、濱村さんにとってのフェミニズムは、「女性だけなく、すべての人を解放するもの」。男女問わず、「弱い」とされる者が差別されたり、蔑まされたりしない世界を創るものです。そんな濱村さんの信条に応じるかのように、スポーツで鍛えた太い腕を持つ男子学生が、「コンビニでバイトをしている時、半袖の時期は客にからまれないけど、長袖の時期はからまれる」と自分の経験を話してくれました。

 「いろいろなフェミニズムがあるけれど、関心があるのは、日常にひそむ差別を問題化するもの」と濱村さんはいいます。本学在学中、濱村さんは、「『音姫』の存在こそが、女性が用をたす時の音を必要以上に恥ずかしくしているのではないか」という問いを問う卒論を書きました。

 まさに「日常にひそむ差別」への問題関心にもとづくものであり、その関心は現在も健在です。一方で、作品は変化を遂げており、絵だけでなく、インスタレーションも発表するようになりました。

 初発の問題関心を大事にしながら、新たな表現を切り拓くアーティストHAMAMUから目が離せません。次はどんな作品を発表し、観る者を「ざわざわ」させたり、「安心」させたり、はたまた別の感情を引き起こしたりしてくれるのでしょうか。

 本当は、もう少し紹介したい作品がありました。が、それについては、いつか、また別の機会に別の場所でご紹介できればと思います。あるいは、展示会などで、ご自身の目で見ることのできる幸運が、皆さんに訪れることを願っています。