「外国史I」ほかを担当している高津です。東京経済大学では、来年4月から「キャリアデザインプログラム」が導入されますね。卒業後の人生を見据えた大学のキャリア教育が、さらに充実したものとなりそうです。しかし、どんなにカリキュラムが変わっても、その結果として皆さんが変わらなくては意味がありません。皆さんの人生を決めるのは、結局のところ皆さん自身ですから。皆さんは卒業後、どんな人生を送りたいですか。
ところで、「会社」という言葉は、明治時代に英語の“Company”の訳語として用いられるようになりました。しかし私には、この二つの言葉は大分異なったニュアンスを持っているように思われます。
すでに中世に用いられていた“Company”という言葉は、真ん中に「パン」という言葉が入っています。この言葉はもともと「パンを分け合う人びと」という意味です。同じ食卓で食事を分け合う人びとの間には、仲間や同胞としての強い絆が生まれます。新約聖書に記された「最後の晩餐」というエピソードにおいて、逮捕と処刑を目前にしたイエス・キリストが弟子たちにパンを分け与えます。イエスはそのパンを自らの肉体として与えたのでした。
日本でも「同じ釜の飯を食べた間柄」という表現がありますが、これなどは-キリスト教的な宗教的な意味合いを別にすれば-“Company”が想起させる人間関係に近いかもしれません。しかしそうだとすると、現在の私たちがこの表現を会社の同僚に対して使うことは稀ですから、日本と欧米の会社での人間関係のあり方は、異なっているのかもしれません。例えば私たちも仕事の後に会社の同僚と食事をしたりお酒を飲んだりしますが、こうしたことは「アフターファイブ」の私的な付き合いです。これに対して“Company”は、そうした共同の食事(会)を基盤とする人間集団、共同体なのです。
そもそも現代社会では、農業などの一部の職業を例外として、同僚と仕事をする会社と、家族や友人と親密な時間を過ごす家は別にあります。これに対して中世ヨーロッパでは、仕事の場と家庭生活の場が同一なのが普通であり、仕事関係と家族・友人関係も重なり合う部分が大きかった。このことも中世以来の“Company”と、近代日本に輸入された「会社」の語を異なったものにしている原因かもしれません。
私たちはしばしば、会社の同僚との人間関係に悩みます。しかしそうした悩みを恐れるあまり、「所詮仕事上のドライな付き合い」と割り切ってしまうのも、“Company”の語が内包している精神にそぐわない気がします。毎回ではないにしても、同僚との食事会や飲み会、社員旅行などの行事に参加することも、“Company”の一員として相応しい振る舞いと言えるでしょう。同僚間の過度の甘えや相互依存は禁物でしょうけれども。
【学問のミカタ】 8月のテーマ「会社」
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