自然の構造ほか担当の榎です。遅くなりましたが、7月6日(金)に、学習センターにて開かれたTKUサイエンスカフェの報告です。今回の講師は、独立行政法人 労働者健康安全機構 労働安全衛生総合研究所の三浦崇さんで、「静電気と放電」というタイトルでお話しされました。
今回のサイエンスカフェでは、私たちにとって身近な現象である静電気による放電について、いろいろな例から、学ぶことができました。静電気の放電現象は、雷のような自然現象だけでなく、ダイヤモンドでガラスを切断したり、粘着テープをはがしたりする際にも起きるとのことです。この静電気による放電により、ガスや粉塵の大爆発などの災害が引き起こされることもあるため、静電気の放電現象の基礎研究は社会的にも重要なものとなっているとのことです。
サイエンスカフェは、お菓子を食べ、お茶を飲みながら、最先端の科学研究を気楽に学ぶ場です。本学では、2011年度から、TKUサイエンスカフェと銘打ったサイエンスカフェを開催しています。
参考)これまでのTKUサイエンスカフェのレポート
2013年度第1回「この夏、天の川銀河の超巨大ブラックホールに接近するガス雲の運命」
2013年度第2回「宇宙は何からできている?」
2014年度第1回「折り紙の数学」
2014年度第2回「ブラックホールの謎に迫る!」
2015年度第1回「コンテンツの生まれかたと受けとりかた」
2015年度第2回「豚インフルエンザについて」
2016年度第1回「ブラックホール、ビッグバン、そして次元 ~人に話したくなる宇宙のおはなし~」
2016年度第2回「コスモスを秋桜と書く理由、秋桜が春に咲く理由」
2017年度第1回「映像世界と身体感覚」
2017年度第2回「時間とは何だろう」
2018年8月29日水曜日
2018年8月17日金曜日
アーティスト濱村美郷(HAMAMU)さんが徐京植先生のゼミに
■芸術って何だ?
ジェンダー論ほか担当の澁谷知美です。本学の21世紀教養プログラム(現在は募集停止)の卒業生でアーティストの濱村美郷さんが、6月21日、恩師である徐京植先生のゼミ(総合教育演習)「芸術を通じて考える人間と社会」にゲスト講師でいらっしゃいました。
濱村さんは、韓国・ソウルを拠点に、HAMAMU 名義で、ジェンダーやセクシュアリティをテーマとした絵やインスタレーションを発表しています。4度目の個展をソウルで終えたばかりの濱村さんの作品は、とてもパワフルです。
濱村さんがゲストにいらした徐先生のゼミ「芸術を通じて考える人間と社会」は、芸術作品の鑑賞を通じて、作品に表現されている人間と社会の諸問題について考察します。「すぐれた芸術作品は『ことば』だけでは言い尽くせない人間の複雑な心理や深い感情を、ときには作者自身の意図をも超えて、表現する」ことを前提に、作品が発するメッセージを「全身の感性で受け止め」ることを目指すゼミです。年間、2、3回、皆で美術館などに出かけて作品を鑑賞し、感想を交換しあうこともあります(シラバスより)。
「『ことば』だけでは言い尽くせない人間の複雑な心理や深い感情が表れている作品」と聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのは、1945年8月6日にアメリカ軍によって原子爆弾を落とされた広島の様子を描いた、丸木位里・丸木俊の「原爆の図第1部幽霊」です。
この絵は、原爆で皮膚がぼろ布のように垂れさがった人、焼け焦げて見分けがつかなくなった顔、まるで幽霊のように手を上げて歩いては、力尽きて倒れた人(上記URLのページにある解説より)が描かれています。「ことば」で「皮膚がぼろ布のように垂れ下がった人」と描写するよりも、その様子を視覚的に表現した絵は、観る者に何倍ものインパクトを与えます。そして、「絶望」、「怒り」、「悲しみ」といった「ことば」だけでは言い尽くせない「人間の深い感情」を私たちはこの絵から読み取り、戦争がどのようなものなのか、人が人を殺戮し、傷害を与えるとはどのようなことなのか、「気づき」を得るのです。
アートというと、「美しい」、「目に楽しい」ものを思い浮かべる人がいるかもしれません。しかし、そうではない側面もアートにはあります。「『ことば』だけでは言い尽くせない人間の複雑な心理や深い感情」を表現する作品は、なおさらそういう側面を持つでしょう。
濱村さんの作品も、巷にあふれる「美しい」、「目に楽しい」作品の基準には合致しないかもしれません。が、確実に「気づき」を与えてくれ、「ことば」による説明以上に観る者のイマジネーションを刺激します。
この絵には、ワキ毛を剃っている人(画面左側)、脚のスネ毛を剃っている人(画面右側)が描かれています。場所はシャワールームです。左上にシャワーが見えます。ワキ毛や脚のスネ毛を剃らなければならないという、女性にたいする抑圧をモチーフとしたものです。「そういえば、ワキ毛やスネ毛の処理を求められるのって圧倒的に女性だな」、「それはなぜなのだろう?」。そんな「気づき」を与えてくれる作品です。
画面の左半分が赤で塗りこめられているために、シャワーから出る水は血のようにも見えます。毛剃りでにじむ血を意味しているのか、「『美』への血のにじむような努力」の象徴なのか、女性が置かれた窮屈な世界への「絶望」の表現なのか……。「ことば」によって規定されていないがゆえに、いろいろな考えが浮かびます。
■フェミニズム・アート
濱村さんの絵は、フェミニズム・アートというジャンルに位置づけることができます。フェミニズム・アートとは、フェミニズムを背景に、1960年代に欧米で生まれたアートの潮流のことです。日常における女性の経験をモチーフにしたり、女性にたいする社会の抑圧を可視化したり、あるいは女性をエンパワーメント(励ましたり、勇気づけたり)する作品が生まれています。
フェミニズム・アートとして有名な作品のひとつに、アメリカのアーティスト、ジュディ・シカゴの「ディナー・パーティ」があります。女性器をモチーフとした柄が描かれた皿39枚を食卓に並べたインスタレーション作品です。皿の1枚1枚には、紀元前のギリシアの詩人サッフォーや、20世紀に活躍したイギリスの小説家ヴァージニア・ウルフといった著名な女性たちの名前が付けられており、パワフルな女性たちの歴史が過去から現在に至るまで脈々と続いていることを感じさせます。
フェミニストでジェンダー研究者の上野千鶴子は、女性の表現者がしばしば女性の身体をモチーフにすることを指摘したうえで、ジュディ・シカゴの作品に「女が女自身を回復する」ためのメッセージを見出しました(『女遊び』1999年、学陽書房、18-9頁参照)。
「女が女自身を回復する」とはどういうことでしょうか?このメッセージの意味を理解するには、女性の身体は女性のものでありながら、女性のものでなかったことに思いをはせる必要があります。では、誰のものなのか。実は、「所有者は男たちだった」と上野はいいます(前掲書、19頁)。
そういえば、女性が痴漢被害をはじめとする性暴力にさらされることはしょっちゅうだし、社会からは「子どもを産め」という圧力をかけられます。異性から不躾なまなざしで見られたり、美しくなかったり、スタイルが良くないと罵倒されます。そうした他者の視線を内面化して、自分で自分を呪い、罵倒することさえあります(「内面化」というのは、外部の影響で身に付けた価値観を、まるで自分の内側から出て来たもののように思いこむことです)。
そのような社会にたいしてノーをいい、自分の身体の所有者は自分であることを確かめる意味が、フェミニズム・アーティストの女性の身体を描くという行為にはある――上野による「ディナー・パーティ」解釈が示唆するのは、そのようなことです。
女性の日常や身体を描く濱村さんの作品は、そんなフェミズム・アートの文脈に位置づけられるものです。こちらは、月経カップ(膣内に埋め込んで経血を受けるシリコン製のカップ)をモチーフにした作品。カップを入れる時のポーズの面白さに惹かれ、描いたそうです。よく見ると折りたたまれた月経カップも描かれています。色使いがひじょうにポップです。
「憂鬱」という意味づけが優位な月経にまつわる身体の動きに、濱村さんは「面白さ」を見いだし、愉快な雰囲気さえ伝わるカラフルな作品に仕上げました。その感性に、「女が女自身を回復する瞬間」を見る気がします。
濱村さんは、作品にタイトルをつけません。作品にかんする説明も必要最小限にとどめます。なぜなら、観る人に先入感を与えてしまうから。ゼロの状態で観てもらい、観る人それぞれに、それぞれの仕方で解釈してもらう――それがHAMAMU スタイルです。
フロアからは、「なんだか、気持ちがざわざわする」、「自分が普段ひそかに思っていることを思っている人がこの世に存在するんだということがわかり、勇気づけられる」など、いろいろな意見が飛び交いました。濱村さんのねらいどおりです。
参加者のやりとりを教室の端で見ながら、「ことば」で説明しないがゆえに、観る者から「ことば」を引き出すHAMAMU スタイルに、私は舌を巻いていました。と同時に、そのスタイルそのものが、「『ことば』で表現できるなら、とっくにしていますよ。『ことば』では表現できないものがあるから、絵を描いたのですよ」というメッセージであるように、私には思えました。
■フェミニズムはすべての人を解放するもの
濱村さんは2014年に21世紀教養プログラムを卒業しました。同プログラムの授業「オフキャンパス・プログラム」で韓国に行き、ソウルの地下鉄にて、現地のお年寄りから日本語で親切に話しかけられます。お年寄りが日本語を話すに至った歴史的背景を知った濱村さんは、「韓国の人の言葉を理解したい」と思うようになります。
在学中に1年間の語学留学をし、卒業後、ふたたび韓国に渡りました。そこから数えて、韓国生活は5年目に入りました。
濱村さんの創作の動機は「怒り」です。「あの中年男性、私が女でなければ、からんでこなかっただろうに」などと、女であるがゆえに日常のなかで覚える「怒り」が原動力になっています。
とはいえ、濱村さんにとってのフェミニズムは、「女性だけなく、すべての人を解放するもの」。男女問わず、「弱い」とされる者が差別されたり、蔑まされたりしない世界を創るものです。そんな濱村さんの信条に応じるかのように、スポーツで鍛えた太い腕を持つ男子学生が、「コンビニでバイトをしている時、半袖の時期は客にからまれないけど、長袖の時期はからまれる」と自分の経験を話してくれました。
「いろいろなフェミニズムがあるけれど、関心があるのは、日常にひそむ差別を問題化するもの」と濱村さんはいいます。本学在学中、濱村さんは、「『音姫』の存在こそが、女性が用をたす時の音を必要以上に恥ずかしくしているのではないか」という問いを問う卒論を書きました。
まさに「日常にひそむ差別」への問題関心にもとづくものであり、その関心は現在も健在です。一方で、作品は変化を遂げており、絵だけでなく、インスタレーションも発表するようになりました。
初発の問題関心を大事にしながら、新たな表現を切り拓くアーティストHAMAMUから目が離せません。次はどんな作品を発表し、観る者を「ざわざわ」させたり、「安心」させたり、はたまた別の感情を引き起こしたりしてくれるのでしょうか。
本当は、もう少し紹介したい作品がありました。が、それについては、いつか、また別の機会に別の場所でご紹介できればと思います。あるいは、展示会などで、ご自身の目で見ることのできる幸運が、皆さんに訪れることを願っています。
ジェンダー論ほか担当の澁谷知美です。本学の21世紀教養プログラム(現在は募集停止)の卒業生でアーティストの濱村美郷さんが、6月21日、恩師である徐京植先生のゼミ(総合教育演習)「芸術を通じて考える人間と社会」にゲスト講師でいらっしゃいました。
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| 濱村さんと作品 (c) HAMAMU |
濱村さんは、韓国・ソウルを拠点に、HAMAMU 名義で、ジェンダーやセクシュアリティをテーマとした絵やインスタレーションを発表しています。4度目の個展をソウルで終えたばかりの濱村さんの作品は、とてもパワフルです。
濱村さんがゲストにいらした徐先生のゼミ「芸術を通じて考える人間と社会」は、芸術作品の鑑賞を通じて、作品に表現されている人間と社会の諸問題について考察します。「すぐれた芸術作品は『ことば』だけでは言い尽くせない人間の複雑な心理や深い感情を、ときには作者自身の意図をも超えて、表現する」ことを前提に、作品が発するメッセージを「全身の感性で受け止め」ることを目指すゼミです。年間、2、3回、皆で美術館などに出かけて作品を鑑賞し、感想を交換しあうこともあります(シラバスより)。
「『ことば』だけでは言い尽くせない人間の複雑な心理や深い感情が表れている作品」と聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのは、1945年8月6日にアメリカ軍によって原子爆弾を落とされた広島の様子を描いた、丸木位里・丸木俊の「原爆の図第1部幽霊」です。
この絵は、原爆で皮膚がぼろ布のように垂れさがった人、焼け焦げて見分けがつかなくなった顔、まるで幽霊のように手を上げて歩いては、力尽きて倒れた人(上記URLのページにある解説より)が描かれています。「ことば」で「皮膚がぼろ布のように垂れ下がった人」と描写するよりも、その様子を視覚的に表現した絵は、観る者に何倍ものインパクトを与えます。そして、「絶望」、「怒り」、「悲しみ」といった「ことば」だけでは言い尽くせない「人間の深い感情」を私たちはこの絵から読み取り、戦争がどのようなものなのか、人が人を殺戮し、傷害を与えるとはどのようなことなのか、「気づき」を得るのです。
アートというと、「美しい」、「目に楽しい」ものを思い浮かべる人がいるかもしれません。しかし、そうではない側面もアートにはあります。「『ことば』だけでは言い尽くせない人間の複雑な心理や深い感情」を表現する作品は、なおさらそういう側面を持つでしょう。
濱村さんの作品も、巷にあふれる「美しい」、「目に楽しい」作品の基準には合致しないかもしれません。が、確実に「気づき」を与えてくれ、「ことば」による説明以上に観る者のイマジネーションを刺激します。
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| HAMAMU作 無題(2018年) (c) HAMAMU |
この絵には、ワキ毛を剃っている人(画面左側)、脚のスネ毛を剃っている人(画面右側)が描かれています。場所はシャワールームです。左上にシャワーが見えます。ワキ毛や脚のスネ毛を剃らなければならないという、女性にたいする抑圧をモチーフとしたものです。「そういえば、ワキ毛やスネ毛の処理を求められるのって圧倒的に女性だな」、「それはなぜなのだろう?」。そんな「気づき」を与えてくれる作品です。
画面の左半分が赤で塗りこめられているために、シャワーから出る水は血のようにも見えます。毛剃りでにじむ血を意味しているのか、「『美』への血のにじむような努力」の象徴なのか、女性が置かれた窮屈な世界への「絶望」の表現なのか……。「ことば」によって規定されていないがゆえに、いろいろな考えが浮かびます。
■フェミニズム・アート
濱村さんの絵は、フェミニズム・アートというジャンルに位置づけることができます。フェミニズム・アートとは、フェミニズムを背景に、1960年代に欧米で生まれたアートの潮流のことです。日常における女性の経験をモチーフにしたり、女性にたいする社会の抑圧を可視化したり、あるいは女性をエンパワーメント(励ましたり、勇気づけたり)する作品が生まれています。
フェミニズム・アートとして有名な作品のひとつに、アメリカのアーティスト、ジュディ・シカゴの「ディナー・パーティ」があります。女性器をモチーフとした柄が描かれた皿39枚を食卓に並べたインスタレーション作品です。皿の1枚1枚には、紀元前のギリシアの詩人サッフォーや、20世紀に活躍したイギリスの小説家ヴァージニア・ウルフといった著名な女性たちの名前が付けられており、パワフルな女性たちの歴史が過去から現在に至るまで脈々と続いていることを感じさせます。
フェミニストでジェンダー研究者の上野千鶴子は、女性の表現者がしばしば女性の身体をモチーフにすることを指摘したうえで、ジュディ・シカゴの作品に「女が女自身を回復する」ためのメッセージを見出しました(『女遊び』1999年、学陽書房、18-9頁参照)。
「女が女自身を回復する」とはどういうことでしょうか?このメッセージの意味を理解するには、女性の身体は女性のものでありながら、女性のものでなかったことに思いをはせる必要があります。では、誰のものなのか。実は、「所有者は男たちだった」と上野はいいます(前掲書、19頁)。
そういえば、女性が痴漢被害をはじめとする性暴力にさらされることはしょっちゅうだし、社会からは「子どもを産め」という圧力をかけられます。異性から不躾なまなざしで見られたり、美しくなかったり、スタイルが良くないと罵倒されます。そうした他者の視線を内面化して、自分で自分を呪い、罵倒することさえあります(「内面化」というのは、外部の影響で身に付けた価値観を、まるで自分の内側から出て来たもののように思いこむことです)。
そのような社会にたいしてノーをいい、自分の身体の所有者は自分であることを確かめる意味が、フェミニズム・アーティストの女性の身体を描くという行為にはある――上野による「ディナー・パーティ」解釈が示唆するのは、そのようなことです。
女性の日常や身体を描く濱村さんの作品は、そんなフェミズム・アートの文脈に位置づけられるものです。こちらは、月経カップ(膣内に埋め込んで経血を受けるシリコン製のカップ)をモチーフにした作品。カップを入れる時のポーズの面白さに惹かれ、描いたそうです。よく見ると折りたたまれた月経カップも描かれています。色使いがひじょうにポップです。
「憂鬱」という意味づけが優位な月経にまつわる身体の動きに、濱村さんは「面白さ」を見いだし、愉快な雰囲気さえ伝わるカラフルな作品に仕上げました。その感性に、「女が女自身を回復する瞬間」を見る気がします。
濱村さんは、作品にタイトルをつけません。作品にかんする説明も必要最小限にとどめます。なぜなら、観る人に先入感を与えてしまうから。ゼロの状態で観てもらい、観る人それぞれに、それぞれの仕方で解釈してもらう――それがHAMAMU スタイルです。
フロアからは、「なんだか、気持ちがざわざわする」、「自分が普段ひそかに思っていることを思っている人がこの世に存在するんだということがわかり、勇気づけられる」など、いろいろな意見が飛び交いました。濱村さんのねらいどおりです。
参加者のやりとりを教室の端で見ながら、「ことば」で説明しないがゆえに、観る者から「ことば」を引き出すHAMAMU スタイルに、私は舌を巻いていました。と同時に、そのスタイルそのものが、「『ことば』で表現できるなら、とっくにしていますよ。『ことば』では表現できないものがあるから、絵を描いたのですよ」というメッセージであるように、私には思えました。
■フェミニズムはすべての人を解放するもの
濱村さんは2014年に21世紀教養プログラムを卒業しました。同プログラムの授業「オフキャンパス・プログラム」で韓国に行き、ソウルの地下鉄にて、現地のお年寄りから日本語で親切に話しかけられます。お年寄りが日本語を話すに至った歴史的背景を知った濱村さんは、「韓国の人の言葉を理解したい」と思うようになります。
在学中に1年間の語学留学をし、卒業後、ふたたび韓国に渡りました。そこから数えて、韓国生活は5年目に入りました。
濱村さんの創作の動機は「怒り」です。「あの中年男性、私が女でなければ、からんでこなかっただろうに」などと、女であるがゆえに日常のなかで覚える「怒り」が原動力になっています。
とはいえ、濱村さんにとってのフェミニズムは、「女性だけなく、すべての人を解放するもの」。男女問わず、「弱い」とされる者が差別されたり、蔑まされたりしない世界を創るものです。そんな濱村さんの信条に応じるかのように、スポーツで鍛えた太い腕を持つ男子学生が、「コンビニでバイトをしている時、半袖の時期は客にからまれないけど、長袖の時期はからまれる」と自分の経験を話してくれました。
「いろいろなフェミニズムがあるけれど、関心があるのは、日常にひそむ差別を問題化するもの」と濱村さんはいいます。本学在学中、濱村さんは、「『音姫』の存在こそが、女性が用をたす時の音を必要以上に恥ずかしくしているのではないか」という問いを問う卒論を書きました。
まさに「日常にひそむ差別」への問題関心にもとづくものであり、その関心は現在も健在です。一方で、作品は変化を遂げており、絵だけでなく、インスタレーションも発表するようになりました。
初発の問題関心を大事にしながら、新たな表現を切り拓くアーティストHAMAMUから目が離せません。次はどんな作品を発表し、観る者を「ざわざわ」させたり、「安心」させたり、はたまた別の感情を引き起こしたりしてくれるのでしょうか。
本当は、もう少し紹介したい作品がありました。が、それについては、いつか、また別の機会に別の場所でご紹介できればと思います。あるいは、展示会などで、ご自身の目で見ることのできる幸運が、皆さんに訪れることを願っています。
2018年7月17日火曜日
【学問のミカタ】ドイツの政治教育
はじめまして。「教育原理」等の教職課程科目、そして総合教育科目「教育学」を担当している寺田佳孝です。今回は、自分の研究対象であるドイツの政治教育について、その特徴を簡単にご紹介したいと思います。
「政治教育」と言うと聞きなれない言葉かもしれませんが、中学校の社会科、高等学校の現代社会、政治・経済といった科目をイメージしてください。そこでは、政治・経済システム、今の政治や社会情勢などが扱われています。こうした対象について、ドイツの学校でどのように教えられているのかを明らかにするのが、自分の研究テーマです。
それではドイツに注目する理由は何か? それは、ドイツの政治教育が日本とかなり異なっており、示唆に富んでいるからです。たとえば日本の中学社会科・高校公民科に目を向けると、一般的に次の特徴が見られます。
まず、授業で扱う内容(教育内容)について。学習指導要領や教科書記述では、政治・経済制度や概念の説明が中心です。政治争点や社会問題は扱われてはいますが、概説的に説明されるケースが目立ちます。とくに政党や社会集団、専門家の見解等が引用されることは、あまりありません。
次に、生徒の学習活動について。教科書で今の政治・社会問題を扱う場合も、数ページで辞書のように書かれ、しかも教師主導で説明を読み上げるスタイルが一般的です(例外はあります)。これでは結果的に、生徒は、政治・社会課題を自ら判断することができなくなってしまいます。
では、この2点について、ドイツの教育を見てみましょう。
まず教育内容について。ドイツの場合、多くの政治の教科書は、政治的・社会的争点や問題点を主に扱います。たとえば、社会保障の章で「子どもの貧困」「失業生活」に焦点化したり、国際政治の分野で「ドイツ連邦軍のNATO軍事行動への参加」の是非を大きく扱います。
そして学習方法について。一般に現代ドイツの教科書は、新聞や雑誌からの引用、統計データ、政治風刺等の「資料」と、「自分の考えを書く」「インターネットや図書館で情報収集する」「政党や関連団体のスポークスマンを呼び、インタビューする」等、生徒の主体性を求める「課題」から構成されます。つまり、生徒の主体的な学習活動が予定されているわけです。
もちろん、ドイツの政治教育にも疑問はあります。「政治的に『偏って』いるのではないか」「教科書は立派でも現場の実態はどうなのか」。ドイツの政治教育の教科書や、ごく限られた「トップ校」 のすばらしい政治教育実践だけに注目し、「 ドイツの政治教育はすごい」と称賛するような姿勢は、 避けなければいけません。しかしながら、少なくとも「政治を生徒の身近な存在にすること」「自ら政治・社会問題を調査、議論し、意見をはっきりさせる学習」、これは、日本の教育に再考を促すものでしょう。
7月の【学問のミカタ】
・経済学部「復興支援の経済学」
・経営学部「Amazonが覆しつつある常識・・・ 」
・コミュニケーション学部「アスリートは勝負をどう学ぶのか 」
・現代法学部「裁判員って何をするの?」
・キャリアデザインプログラム「就職活動ではなく『入社活動』を!」
東京経済大学の教職課程について
本学では、中学・高校の教員免許を取得できます(取得可能な免許一覧)。
詳しくは、「教職課程」のページをご覧ください。
「政治教育」と言うと聞きなれない言葉かもしれませんが、中学校の社会科、高等学校の現代社会、政治・経済といった科目をイメージしてください。そこでは、政治・経済システム、今の政治や社会情勢などが扱われています。こうした対象について、ドイツの学校でどのように教えられているのかを明らかにするのが、自分の研究テーマです。
それではドイツに注目する理由は何か? それは、ドイツの政治教育が日本とかなり異なっており、示唆に富んでいるからです。たとえば日本の中学社会科・高校公民科に目を向けると、一般的に次の特徴が見られます。
まず、授業で扱う内容(教育内容)について。学習指導要領や教科書記述では、政治・経済制度や概念の説明が中心です。政治争点や社会問題は扱われてはいますが、概説的に説明されるケースが目立ちます。とくに政党や社会集団、専門家の見解等が引用されることは、あまりありません。
次に、生徒の学習活動について。教科書で今の政治・社会問題を扱う場合も、数ページで辞書のように書かれ、しかも教師主導で説明を読み上げるスタイルが一般的です(例外はあります)。これでは結果的に、生徒は、政治・社会課題を自ら判断することができなくなってしまいます。
では、この2点について、ドイツの教育を見てみましょう。
まず教育内容について。ドイツの場合、多くの政治の教科書は、政治的・社会的争点や問題点を主に扱います。たとえば、社会保障の章で「子どもの貧困」「失業生活」に焦点化したり、国際政治の分野で「ドイツ連邦軍のNATO軍事行動への参加」の是非を大きく扱います。
そして学習方法について。一般に現代ドイツの教科書は、新聞や雑誌からの引用、統計データ、政治風刺等の「資料」と、「自分の考えを書く」「インターネットや図書館で情報収集する」「政党や関連団体のスポークスマンを呼び、インタビューする」等、生徒の主体性を求める「課題」から構成されます。つまり、生徒の主体的な学習活動が予定されているわけです。
もちろん、ドイツの政治教育にも疑問はあります。「政治的に『偏って』いるのではないか」「教科書は立派でも現場の実態はどうなのか」。ドイツの政治教育の教科書や、ごく限られた「トップ校」
7月の【学問のミカタ】
・経済学部「復興支援の経済学」
・経営学部「Amazonが覆しつつある常識・・・ 」
・コミュニケーション学部「アスリートは勝負をどう学ぶのか 」
・現代法学部「裁判員って何をするの?」
・キャリアデザインプログラム「就職活動ではなく『入社活動』を!」
東京経済大学の教職課程について
本学では、中学・高校の教員免許を取得できます(取得可能な免許一覧)。
詳しくは、「教職課程」のページをご覧ください。
2018年6月26日火曜日
トルクメニスタン探訪
「地球の科学」ほか担当の新正です。
先日テレビの撮影クルーに同行してトルクメニスタンを訪問する機会がありましたので、その様子を少し記させていただきます。
トルクメニスタンは中央アジア、カスピ海の東側に広がる内陸国で日本の1.3倍ほどの国土面積を持ちますが、その85%ほどがカラクム砂漠で占められます。1991年に旧ソ連から独立して共和制国家となりましたが、大統領権限が強く、現在は2007年から2代目のベルディムハメドフ大統領が長期政権を築いています。
もちろん日本から直行便はないので、乗り継ぎの経路で渡航する必要があります。今回は、時間を節約するために金曜夕方授業を終えて羽田へそこから北京に行って、夜間に乗り継いで首都アシガバートへ朝に着く便を利用しました。北京からのトルクメニスタン航空便はトルクメニスタン人の爆買い路線になっていて、チェックインの際に、大きな段ボールなどの荷物をいくつも抱えた人びとに取り囲まれる状況で若干往生しました。
到着した空港でアライバルビザを取得します。あらかじめ入手した招待状を出して、米ドルで100ドル余りの手数料を払って手続きをします。出発前この部分が大変不安でしたが、余り待ちも無くスムーズに発給され、軍人風の制服の入国審査の人も無表情でチェックしながらも、最後にwelcomeと一言言って通してくれて心底ホッとしました。
トルクメニスタンの首都アシガバートは大理石を用いた白亜の建築にあふれなかなか不思議な趣を見せます。ただし、災害とは無縁ではなく都市の南方を走る断層による1948年の大地震では死者行方不明者約11万人と推定される壊滅的な被害を受けています。
ホテルで先発の撮影クルーの人びとと合流して、後は国内の様々な自然景観地を1週間あまり巡って観察を行い戻って来ました。詳細については、末尾に記した番組をご覧下さい。
基本的には、極めて豊富に胚胎する天然ガス、石油の輸出が経済を支えており、また灌漑農業や牧畜業などが行われているが、その他にあまり目立った産業が無いように見受けられました。シルクロードの国だけあり、沙漠地域のなかでも牛・馬・羊・山羊・駱駝など放牧されているのはそこここで見受けられます。
また訪れた自然景観地はいずれも不便なところにあり、ガイドはいても観光地としては十分に開発されておらず、比較的著名な景観地ですらすべてテント泊でしか見に行くことができません。たとえば、日本で最も紹介されている自然景観地はダルヴァザの「地獄の門」だと思われますが、主要道から何キロも四輪駆動車で入る必要があり、現地に夜間滞在する人用に複数のテントサイトと、モンゴルのゲル風の小屋が準備されているのみでした。それにもかかわらず、日本人を含め観光者が少数とはいえ来られていたのにはちょっと驚きました。
トルクメニスタン、カザフスタン、アルメニアの3国の自然景観の取材に基づく番組が先日NHK BSプレミアムで放映されました。7月14日に再放送がありますので、お時間がありましたら是非ご覧いただけると幸いです。
体感!グレートネイチャー「シルクロード・灼熱炎と幻の海」
先日テレビの撮影クルーに同行してトルクメニスタンを訪問する機会がありましたので、その様子を少し記させていただきます。
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| 随所に大統領の肖像が掲げられている |
もちろん日本から直行便はないので、乗り継ぎの経路で渡航する必要があります。今回は、時間を節約するために金曜夕方授業を終えて羽田へそこから北京に行って、夜間に乗り継いで首都アシガバートへ朝に着く便を利用しました。北京からのトルクメニスタン航空便はトルクメニスタン人の爆買い路線になっていて、チェックインの際に、大きな段ボールなどの荷物をいくつも抱えた人びとに取り囲まれる状況で若干往生しました。
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| 首都にはおしゃれなカフェレストランも |
トルクメニスタンの首都アシガバートは大理石を用いた白亜の建築にあふれなかなか不思議な趣を見せます。ただし、災害とは無縁ではなく都市の南方を走る断層による1948年の大地震では死者行方不明者約11万人と推定される壊滅的な被害を受けています。
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| テント泊の朝食を「何かあるかな?」 的な雰囲気でのぞきに来るも現地 ガイドに追い払われるラクダ達 |
基本的には、極めて豊富に胚胎する天然ガス、石油の輸出が経済を支えており、また灌漑農業や牧畜業などが行われているが、その他にあまり目立った産業が無いように見受けられました。シルクロードの国だけあり、沙漠地域のなかでも牛・馬・羊・山羊・駱駝など放牧されているのはそこここで見受けられます。
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| 旧ソ連製の四駆で現地に運ばれる |
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| 誰も蛸など見たことも食ったことも 無いのになぜか蛸さんウィンナーが |
体感!グレートネイチャー「シルクロード・灼熱炎と幻の海」
2018年5月21日月曜日
【学問のミカタ】数学研究の一コマ
数学担当の阿部です。 昨年の三月頃からある数学の問題に興味を持ち、 ずっとその計算をしていました。 計算が終了したのが七月の終わり頃で、 なかなか面白い解答が得られたので、 論文にまとめようと執筆を進めていると、 あるときその解答に漏れがあることに気付きました。 仕方ないので執筆作業を中断し、 再び計算をやり直すことにしました。こんなことがあると、 ひどく落ち込んでしばらくは数学のことを見たくもなくなるものな のですが、そのときは不思議と「ほぉ…まだ真理に到達してなかっ たか。一体この問題の本当の姿はどんななんだろう」 と思ったのを覚えています。
・経営学部「ミャンマーの大学生との交流会@横浜」
・コミュニケーション学部「『好き』を仕事にするなら、回り道しよう 」
・現代法学部「ろう文化を守ることとインクルージョン:障害者と差別について考える 」
iPS細胞で有名な山中伸弥氏がある本の中でオリジナリティにつ いて話をしていました。 概ね次のような内容だったと記憶しています。 実験してみたら予想していた結果と違う結果が出てきた。 自分が予想していたことは他人も予想できること。 でもその予想と違う結果が出てきたら、 それは他人にも予想ができないことが出てきているということなの で、それは自分のオリジナルである。 そのことに面白いと思えるかどうか、 その事実に食らいついていけるかどうかがオリジナルな仕事ができ るかどうかの分かれ道である。
思っていた通りに事が進まないとイライラしたり落ち込んだりする ものです。でも思てたのと違う事柄というのは、 自分の従来の思考の枠からはみ出てる分、 これまでの自分の範疇を超えていくきっかけ含んでいることがある かもしれません。私が得た不完全な解答も、 そこから漏れた事柄を丁寧に調べた結果として、 自分の従来の計算技術では到達できなかったであろう場所まで研究 内容を牽引してくれました。 あのときよく落ち込まずに計算を続けられたなぁと今では胸をなで おろしています。尤もそのあと、 より致命的な計算ミスが見つかり、 全身から血の気が引き手足がぶるぶる震える憂き目にあったのです が、そのことは思い出したくもないので割愛させてください><
追記 最後の計算ミスも後日解決できました^^;
追記 最後の計算ミスも後日解決できました^^;
5月の【学問のミカタ】
・経済学部「日本人の長時間労働の背景」・経営学部「ミャンマーの大学生との交流会@横浜」
・コミュニケーション学部「『好き』を仕事にするなら、回り道しよう 」
・現代法学部「ろう文化を守ることとインクルージョン:障害者と差別について考える 」
2018年5月8日火曜日
破壊と創造の1日
心理学ほか担当の野田です。4月末は、都内でも気温30度近くという記録的な暑さ。野外での課外活動はさながらサバイバルでしたが、今年も総合教育演習のゼミ生と、親子のための「ダンボールのまち」づくり企画(4月22日に開催された「こくぶんじ市民活動フェスティバル」の一環)に参加しました。「子どもたちに道路で思い切り遊ぶ経験を」との願いを込め、今や「国分寺で遊ぶ会」や「冒険遊び場の会」など地域で子どもの遊び場を展開する各種団体が集うこの企画は、バージョンアップを重ねて5年目。今年はダンボールを丸くくり抜けば“1ダンマルク”という地域通貨が誰でも手に入り、それで物の売り買いができるというシステムが導入され、さてどんなコミュニケーションが展開されるか?と期待が高まります。
朝8時半に、国分寺市ひかりプラザ前の封鎖された道路に集合した我々スタッフを待っていたのは、屋内から大量のダンボールを道路に運び出すこと!かと思いきや、今年はダンボールのまちの「村長」から「まちのシンボルになるような、モニュメントを作って欲しい」とお題が出され、学生たちは早くも目が点に。「何を作ったら良いですか?」という質問は、「何が良いと思う?」「遊びに来る人たちがワクワクして、自分も何か作りたくなるのようなものは?」という大人スタッフの笑顔に見送られ。学生たちは自らの既成概念を破壊しつつ、未知なるモニュメントの創造に取り掛かったのでした。
そうこうするうちに、あっという間に10時で本編開始です。続々と親子が訪れては、「両手を広げた範囲」の土地に思い思い、ダンボールの家を建て始めます。家だけでなく、ダンボールに入り「キャタピラー」となって移動し始める子、屋台で作った石鹸を売るお店、ヨーロッパ建築のような銀行、ダンボールの滑り台を作って遊ぶブースなど。大人の想像を超えて遊びが広がり、指示もルールも場の進行状況や参加者の反応によってどんどん変わっていくので、確認や臨機応変の対応が求められます。学生たちも一人前のスタッフとして、ダンボールカッターを操って親子の制作を手伝いながら、リヤカー列車の運行など初対面のスタッフ間でも協力して活動にあたります。
もう一つの重要なミッションは、村長曰く「夢中になって、子どもたちとガッツリ遊ぶこと」です。学生たちはすぐに子どもたちと打ち解け、家づくりを手伝ったり、水鉄砲で遊んだり、できた家でおしゃべりを楽しんだりしていました。真の意味で、「遊ぶ」とはどんなことなのでしょうか。昨年のセンター日記で、仏教哲学者の鈴木大拙が禅の「無心」を“childlikeness”と訳したことを紹介しました。彼は「人間は考える葦である。だが、人間の偉大な仕事は彼が計算していない時、考えていない時になされる。無心が永年にわたる自己忘却の修練の後に回復されねばならぬ」とも述べています。
ダンボールの街を歩いていると、「銀行」なのにお金を配って歩いている子どもや、作ったリボンをなかなか売ってくれない「リボン屋さん」に遭遇します。皆さんだったら、どうしますか?混沌として豊かなエネルギーに満ち溢れた生命、言葉以前の「子どものような」世界に回帰すること。それは言語形式やロジックを超えて、ダイナミックでクリエイティブな関係や空間を創出することでもあります。毎年同じイベント、と思うのは大人の発想です。毎年の真剣勝負があるからこそ、熟達化や創意工夫が見られるようになるのではないでしょうか。“知”のみならず“情意”機能も働かせ、心と身体をフルに動かして、想定外を楽しむことを教えてくれたのは常連の子どもたちです。
“子育ち”支援と家族関係の心理学をテーマとする本ゼミも新年度、まだ2回目です。学生同士はお互いに顔と名前がまだ一致せずでしたが、イベント後の打ち上げ懇親会は賑々しく、締めくくりは見事な一本締め。二次会も楽しかったようです。子どもには、遊びと学びの区別がありません。「遊ぶように学ぶ」心持ちで、学生たちは今年も学びを深めていくことでしょう。
関連記事
・「ダンボールの街」に遊ぶ
・【学問のミカタ】大学には「宿題」はない!?
・冒険遊び場「国分寺市プレイステーション」での体験的学び
朝8時半に、国分寺市ひかりプラザ前の封鎖された道路に集合した我々スタッフを待っていたのは、屋内から大量のダンボールを道路に運び出すこと!かと思いきや、今年はダンボールのまちの「村長」から「まちのシンボルになるような、モニュメントを作って欲しい」とお題が出され、学生たちは早くも目が点に。「何を作ったら良いですか?」という質問は、「何が良いと思う?」「遊びに来る人たちがワクワクして、自分も何か作りたくなるのようなものは?」という大人スタッフの笑顔に見送られ。学生たちは自らの既成概念を破壊しつつ、未知なるモニュメントの創造に取り掛かったのでした。
| 創作中 |
| シンデレラ城 |
そうこうするうちに、あっという間に10時で本編開始です。続々と親子が訪れては、「両手を広げた範囲」の土地に思い思い、ダンボールの家を建て始めます。家だけでなく、ダンボールに入り「キャタピラー」となって移動し始める子、屋台で作った石鹸を売るお店、ヨーロッパ建築のような銀行、ダンボールの滑り台を作って遊ぶブースなど。大人の想像を超えて遊びが広がり、指示もルールも場の進行状況や参加者の反応によってどんどん変わっていくので、確認や臨機応変の対応が求められます。学生たちも一人前のスタッフとして、ダンボールカッターを操って親子の制作を手伝いながら、リヤカー列車の運行など初対面のスタッフ間でも協力して活動にあたります。
| おうちを作ろう |
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| ドイツ風銀行 |
もう一つの重要なミッションは、村長曰く「夢中になって、子どもたちとガッツリ遊ぶこと」です。学生たちはすぐに子どもたちと打ち解け、家づくりを手伝ったり、水鉄砲で遊んだり、できた家でおしゃべりを楽しんだりしていました。真の意味で、「遊ぶ」とはどんなことなのでしょうか。昨年のセンター日記で、仏教哲学者の鈴木大拙が禅の「無心」を“childlikeness”と訳したことを紹介しました。彼は「人間は考える葦である。だが、人間の偉大な仕事は彼が計算していない時、考えていない時になされる。無心が永年にわたる自己忘却の修練の後に回復されねばならぬ」とも述べています。
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| 私のおうち |
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| どうする? |
ダンボールの街を歩いていると、「銀行」なのにお金を配って歩いている子どもや、作ったリボンをなかなか売ってくれない「リボン屋さん」に遭遇します。皆さんだったら、どうしますか?混沌として豊かなエネルギーに満ち溢れた生命、言葉以前の「子どものような」世界に回帰すること。それは言語形式やロジックを超えて、ダイナミックでクリエイティブな関係や空間を創出することでもあります。毎年同じイベント、と思うのは大人の発想です。毎年の真剣勝負があるからこそ、熟達化や創意工夫が見られるようになるのではないでしょうか。“知”のみならず“情意”機能も働かせ、心と身体をフルに動かして、想定外を楽しむことを教えてくれたのは常連の子どもたちです。
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| お疲れさまでした! |
“子育ち”支援と家族関係の心理学をテーマとする本ゼミも新年度、まだ2回目です。学生同士はお互いに顔と名前がまだ一致せずでしたが、イベント後の打ち上げ懇親会は賑々しく、締めくくりは見事な一本締め。二次会も楽しかったようです。子どもには、遊びと学びの区別がありません。「遊ぶように学ぶ」心持ちで、学生たちは今年も学びを深めていくことでしょう。
関連記事
・「ダンボールの街」に遊ぶ
・【学問のミカタ】大学には「宿題」はない!?
・冒険遊び場「国分寺市プレイステーション」での体験的学び
2018年3月30日金曜日
リベラルアーツ教育とその可能性――教養教育 再検討の試み
ジェンダー論他担当の澁谷です。3月16日に行われた、東京経済大学、全学共通教育センター主催、多摩アカデミックコンソーシアム(TAC)の協力で行われたFDシンポジウム「リベラルアーツ教育とその可能性――教養教育 再検討の試み」の報告です。
第一部は、国際基督教大学(ICU)の伊東辰彦氏(音楽学、国際基督教大学教養学部教授・前教養学部長)による基調講演「新リベラルアーツ考――大学教育の再生に向けて」だった。講演は「これがリベラルアーツだ!」といった類のセリフはまやかしと考えたほうがよい、というドキリとする言葉から始まった。論じるべきは、教養教育によって培われる能力や視点は一体なんのために必要であったのか/必要であるのか、ということである。それは時代や場所によって変化するものであり、現代でいえば「教養は全人類的な課題解決のために必要」なのだといえる。あるアジア圏の大学では、新たに教員を採用するさい、専門領域における卓抜な能力とともに、その能力が地球や人類社会の問題解決にどのように結びつけることができるかを判断基準として選抜を行うという。
教養は決してドラマティックなものではなく、日々の教育実践の積み重ねである、との指摘もあった。ケネディの演説に、「平和は、少しづつ意見を変え、ゆっくりと古い壁を取り壊し、静かに新しいものを構築する、日々の、週間ごとの、月ごとのプロセスである。いかにドラマティックなものからかけ離れていようと、平和を求めることを求めつづけなければならない」というものがあるが、伊東氏によれば、この演説の「平和」を「教養」に置きかえることができるという。
たとえば、氏は、専門外のテーマで卒論を書く学生を指導することがある。「あなたが選択したテーマがいかに面白いか、私を説得してください」と学生に求める。すると学生はきちんと説明する。20歳そこそこでも、「社会についてのセンス」のようなものはきちんと持っている。彼らの言うことを否定せず、語らせ、逆に教員の側が学生から学ぶこともまた、日々の教育実践であり、ひいては教養教育である――との教育論が示された。
第二部のパネルディスカッションでは、TACに加盟する各大学から報告があった。国立音楽大学の久保田慶一氏(音楽史学・音楽学)は、「キャリア教育」が「就職教育」になってしまっている現状に疑義を呈し、人生を包括的に計画するための国立音楽大学の教養科目「就職・結婚・子育て」を紹介した。学生の9割が女子であることをふまえての内容だが、男子学生も履修し、「男女で協力していかないと家庭は立ち行かないことが分かった」などの感想を寄せるという。
ICUの岡村秀樹氏(物理学)は、文系であろうと理系であろうと「科学的な考え方」はすべての学生/市民にとって必要であり、リベラルアーツに科学は必須であると述べた。また、「科学」が広まるのに200年かかり、それは今でも発展途上であって、日本の政治や行政に科学の考え方が入っていない(ほぼ文系の人だけで日本の国の運営している)ことに警鐘を鳴らした。近年流行している「エビデンス・ベースドな考え方」といわれるものは、結局は自分にとって都合のよいエビデンスだけを選択しているのではないか、それを科学的な思考と呼んでよいのか、という問題提起もあった。
東京外国語大学の山口裕之氏(ドイツ文学・文化、表象文化論)からは、専門教育の前段階として教養教育が位置づけられているという紹介があった。2019年から教養科目がさらに充実する予定である。そのうち、「教養日本力」というカテゴリーでくくられる各科目の紹介があった(「日本の現在を知る」、「日本の文学と文化を知る」、「日本の歴史と社会を知る」など)。「日本」を越え出て世界と関わる視点と、「日本」にたいする視点の両方を養うことに力点が置かれている。
東京経済大学からは新正裕尚氏(岩石学・地質学)が報告した。教養科目運営組織とカリキュラムの説明のあと、課題として教育方法と教育内容の向上について述べた。前者に関しては教養科目によく見られる大規模講義の問題に触れ、アクティブラーニングは万能ではないが,双方向性を持った授業展開の必要性について論じた。後者については個々の教員の研究・研鑽と教員間で協力した企画・しかけが必須であることを述べた。東経大での企画の例として,2012年度に始めその後発展してきたゼミ報告会などを示し、新たな企画を興し改善するために適切なPDCAサイクルの重要性、教員間での協力関係が担保される健全な教養科目運営組織の必要性について論じた。
武蔵野美術大学からは白石美雪氏(音楽評論・音楽学)から、美大生が関心を持つ教養科目はビジュアルを重視しているという報告があった。その成功例の一つとして、志田陽子教授(憲法学)の「映画で学ぶ憲法」が挙げられた。映画『善き人のためのソナタ』では表現の自由を、『フラガール』では経済活動の自由を、『アメイジング・グレイス』、『リンカーン』では奴隷制の禁止や、法の下の平等、議会制民主主義のあり方などを学ぶという。また、学生にコンサートの企画と運営を経験させる授業「コンサートを作る」の報告があった。有名なチェンバロ奏者とバロックダンスのダンサーを招き、コンサートの内容の企画はもちろん、演者との連絡、事前の広報や、当日の舞台演出、撮影まですべてを学生が請け負う。
フロアの参加者をまじえての質疑応答ののち、場所を移して情報交換会が行われた。教養教育のあり方や日々の教育実践をめぐって活発な議論が行われ、多摩地区の近隣大学の間でこうした機会が持たれたことを喜ぶ声が多数聞かれた。今回は卒業式ゆえに参加できなかった津田塾大学もまじえ、次回のシンポジウムは国立音楽大学で開催される予定である。
・参考:「TACとは?」(本学のTAC紹介ページ)より。
多摩アカデミックコンソーシアム(TAC)は、多摩地区にある4年制大学で構成される大学協力機構です。 東京経済大学と国際基督教大学、国立音楽大学、武蔵野美術大学、東京外国語大学、津田塾大学の6大学の専門分野を生かした単位互換制度、図書館の相互利用、学生・教職員の交流を行っています。
・大学ニュースのシンポジウム報告記事
第一部は、国際基督教大学(ICU)の伊東辰彦氏(音楽学、国際基督教大学教養学部教授・前教養学部長)による基調講演「新リベラルアーツ考――大学教育の再生に向けて」だった。講演は「これがリベラルアーツだ!」といった類のセリフはまやかしと考えたほうがよい、というドキリとする言葉から始まった。論じるべきは、教養教育によって培われる能力や視点は一体なんのために必要であったのか/必要であるのか、ということである。それは時代や場所によって変化するものであり、現代でいえば「教養は全人類的な課題解決のために必要」なのだといえる。あるアジア圏の大学では、新たに教員を採用するさい、専門領域における卓抜な能力とともに、その能力が地球や人類社会の問題解決にどのように結びつけることができるかを判断基準として選抜を行うという。
教養は決してドラマティックなものではなく、日々の教育実践の積み重ねである、との指摘もあった。ケネディの演説に、「平和は、少しづつ意見を変え、ゆっくりと古い壁を取り壊し、静かに新しいものを構築する、日々の、週間ごとの、月ごとのプロセスである。いかにドラマティックなものからかけ離れていようと、平和を求めることを求めつづけなければならない」というものがあるが、伊東氏によれば、この演説の「平和」を「教養」に置きかえることができるという。
たとえば、氏は、専門外のテーマで卒論を書く学生を指導することがある。「あなたが選択したテーマがいかに面白いか、私を説得してください」と学生に求める。すると学生はきちんと説明する。20歳そこそこでも、「社会についてのセンス」のようなものはきちんと持っている。彼らの言うことを否定せず、語らせ、逆に教員の側が学生から学ぶこともまた、日々の教育実践であり、ひいては教養教育である――との教育論が示された。
第二部のパネルディスカッションでは、TACに加盟する各大学から報告があった。国立音楽大学の久保田慶一氏(音楽史学・音楽学)は、「キャリア教育」が「就職教育」になってしまっている現状に疑義を呈し、人生を包括的に計画するための国立音楽大学の教養科目「就職・結婚・子育て」を紹介した。学生の9割が女子であることをふまえての内容だが、男子学生も履修し、「男女で協力していかないと家庭は立ち行かないことが分かった」などの感想を寄せるという。
ICUの岡村秀樹氏(物理学)は、文系であろうと理系であろうと「科学的な考え方」はすべての学生/市民にとって必要であり、リベラルアーツに科学は必須であると述べた。また、「科学」が広まるのに200年かかり、それは今でも発展途上であって、日本の政治や行政に科学の考え方が入っていない(ほぼ文系の人だけで日本の国の運営している)ことに警鐘を鳴らした。近年流行している「エビデンス・ベースドな考え方」といわれるものは、結局は自分にとって都合のよいエビデンスだけを選択しているのではないか、それを科学的な思考と呼んでよいのか、という問題提起もあった。
東京外国語大学の山口裕之氏(ドイツ文学・文化、表象文化論)からは、専門教育の前段階として教養教育が位置づけられているという紹介があった。2019年から教養科目がさらに充実する予定である。そのうち、「教養日本力」というカテゴリーでくくられる各科目の紹介があった(「日本の現在を知る」、「日本の文学と文化を知る」、「日本の歴史と社会を知る」など)。「日本」を越え出て世界と関わる視点と、「日本」にたいする視点の両方を養うことに力点が置かれている。
東京経済大学からは新正裕尚氏(岩石学・地質学)が報告した。教養科目運営組織とカリキュラムの説明のあと、課題として教育方法と教育内容の向上について述べた。前者に関しては教養科目によく見られる大規模講義の問題に触れ、アクティブラーニングは万能ではないが,双方向性を持った授業展開の必要性について論じた。後者については個々の教員の研究・研鑽と教員間で協力した企画・しかけが必須であることを述べた。東経大での企画の例として,2012年度に始めその後発展してきたゼミ報告会などを示し、新たな企画を興し改善するために適切なPDCAサイクルの重要性、教員間での協力関係が担保される健全な教養科目運営組織の必要性について論じた。
武蔵野美術大学からは白石美雪氏(音楽評論・音楽学)から、美大生が関心を持つ教養科目はビジュアルを重視しているという報告があった。その成功例の一つとして、志田陽子教授(憲法学)の「映画で学ぶ憲法」が挙げられた。映画『善き人のためのソナタ』では表現の自由を、『フラガール』では経済活動の自由を、『アメイジング・グレイス』、『リンカーン』では奴隷制の禁止や、法の下の平等、議会制民主主義のあり方などを学ぶという。また、学生にコンサートの企画と運営を経験させる授業「コンサートを作る」の報告があった。有名なチェンバロ奏者とバロックダンスのダンサーを招き、コンサートの内容の企画はもちろん、演者との連絡、事前の広報や、当日の舞台演出、撮影まですべてを学生が請け負う。
フロアの参加者をまじえての質疑応答ののち、場所を移して情報交換会が行われた。教養教育のあり方や日々の教育実践をめぐって活発な議論が行われ、多摩地区の近隣大学の間でこうした機会が持たれたことを喜ぶ声が多数聞かれた。今回は卒業式ゆえに参加できなかった津田塾大学もまじえ、次回のシンポジウムは国立音楽大学で開催される予定である。
・参考:「TACとは?」(本学のTAC紹介ページ)より。
多摩アカデミックコンソーシアム(TAC)は、多摩地区にある4年制大学で構成される大学協力機構です。 東京経済大学と国際基督教大学、国立音楽大学、武蔵野美術大学、東京外国語大学、津田塾大学の6大学の専門分野を生かした単位互換制度、図書館の相互利用、学生・教職員の交流を行っています。
・大学ニュースのシンポジウム報告記事
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